ヴィパッサナー瞑想の修行に参加した時の事
10日間の期間中
生活の殆どが瞑想の時間だった
個人での瞑想の時間
皆が集まっての集団瞑想の時間
誰とも話さず
誰とも目を合わさず
とにかく自分に集中する時間を
毎日毎日過ごしていた
瞑想の際は
出来る限り座禅を組み
決められた時間の瞑想に励むけれど
途中で足が痺れて
とてつもない痛みに襲われ
集中どころではなくなってくる
瞑想中は動いてはいけない
しかし
動かずにはいられない
痛みは激痛に変わり
脂汗さえ出てくる始末
耐えようにも耐えられず
どうにもこうにもならない
辛さだけが蓄積していく
夜間の集団瞑想の後には
先生への質問が許される
希望する者はその場に残り
一人ずつ
瞑想に関する疑問を訊ねていく
私も
このどうにもならない痛みを
どうやったら緩和出来るのかが知りたくて
質問する事にしてみた
「瞑想中 足の痺れが大きくなって
猛烈な痛みに襲われ
瞑想どころではなくなってしまいます
このような痛みは
どうすれば緩和出来るのでしょうか」
それに対する先生の答えはこうだ
「痺れをかんじた時
痛みをかんじた時
ただ
平静でありなさい
その時に速やかに
平静でありなさい」
どういう事だ
全く答えになっていない
他の方の質問への回答に耳を傾けながら
なんとなく
そのような答えが返ってくる予想はしていたが
いざそう言われても
さっぱりわからなかった
痛みの緩和方法を訊いたのだけれど
具体的なことは示されなかった
平静でありなさいとは…
やはり
さっぱりわからない
わからなかったけれど
翌日から私は
「その言葉の通りに」
ただ平静であるよう努めた
平静であるとはどういう事か
今 また痛みに襲われているけれど
この状況で平静であるとはどういう事か
思考を
その痛みではなく
平静である事へとシフトさせた
最初は全く上手くいかない
痛みがある時に平静でなどいられない
無理だとさえ思っていた
ほんのり怒りもかんじていた
それでも忍耐強く
ただ平静であるよう
試行錯誤しながら努め抜いた
すると遂に
ブッダが教える
「全ては無常である
全ては過ぎ去っていく
自分を観察していなさい
いつも自分に氣付いていなさい」
という言葉の本質に触れる体験を得た
そう言えば
瞑想の合間の休憩時間に
お庭で太陽の光を浴びていると
どこからともなく大きな蛇がやってきて
ゆったりスルリスルリと
私が腰掛ける台の下を
ただ平和に通り過ぎて行ったな
確かにあの時
全てがただ
平静であった
平静であり
平穏で
調和があった
なるほどと思った
今 私が誰かに
同じ質問をされたらどう答えるだろうか
答えはこうだ
「平静でありなさい
自分をよく観るんだ
よくよく観るんだ」
こちらの本に倣ったスタイルで
記事を書いてみました
この本は
いくつかの短いエピソードがただ記されているだけで
私達にメソッドや格言などを示したりはしません
それを読んで
どのような視点でどうかんじるのか
エピソードの人物の意図とリンクしたり
登場人物の誰かとリンクしたり
自分なりの新たな視点を発見したり
読み手に多くを委ねてくれる
自分で感じ取る
珍しいタイプの本です
略奪思考
食うか食われるか
など怖い文言が並びますが
その言葉の意味も
読み終えてから
なんとなくかんじるものが生まれるでしょうし
自分をかんじるという点で
活用出来るのではないかなと思います