私が自分に嘘をついていると認めたのは二十歳の時。
相手が喜ぶような、
相手の理想を叶えるような、
よく見られたいとの想いが先に立ち、
本心とは違う言動で自分を抑圧している、
こんな生き方を死ぬまでし続けるのだろうか。
そんな風に思った。
その後、
心と言葉に嘘がない、
真っ直ぐな人との出会いがあって、
本当の自分のままで生きる事で起こる世界、
というものを見せてもらった。
それから、
試行錯誤を繰り返し失敗も沢山重ねて、
少しずつ自分の軸をしっかりさせる事に努めて、
以前よりは強い軸になったように思う。
それによって、
あの頃には想像も出来ないような世界観が、
私の中に宿る事となり、
それをやろうと決めた事から、
命が燃えるのを感じる事が出来ている。
自分の想いに素直である事。
自分の内と外に矛盾がない事。
全てが自分にとっての真実である事。
これがいかに大切か。
しみじみ想う。
もし仮に、
その言動に寄せる想いに邪な物があったとしても、
いわゆる偽善と言われる行為も、
相手が喜んでくれたその熱量が、
邪な想いと同等であれば相殺されるんじゃないか?
なんて思ったりする。
なので、
邪な想いと同等の良い事であれば、
自身に良い事が返ってくる事もない。
邪な想いより下回れば、
つまり、
邪な想いが強すぎたら、
それなりの邪なもの事が返ってくる。
逆に、
利他の想いが邪な想いを越えたその差分が、
大きければ大きいほど、
自分にも良い事として返って来る。
それを繰り返すうちに、
邪な想いそのものが不要になって、
純粋に自分の想いそのままの言動が、
人の喜びへと寄与し始めるのではないか。
なんて、
最近思ったりする。
人にはそれぞれ段階があって、
やろうと思っても素直に出来ない事もあって当然。
例え邪な想いが芽生えようとも、
それを無き物にするのではなく認めた上で、
それを上回る良い想いを込めた言動を心掛ける事、
その積み重ねこそが大切なんだろうと思う。
必要があっての今だから、
今の自分を決して否定してはいけない。
弱い自分も邪な自分も全て愛して、
共に成長しながら、
最終的に想いと行動が一致するようになれば、
それで人生素晴らしく輝くのではないだろうか。
それは、
全てを愛するという事の実践だ。