猫のように生きる

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猫って不思議な生き物です

 

我々人間からしたら
「そこ?!」
というところで突然寝ていたりします

 

 

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猫には

他人の目を気にするという概念がないのでしょう

自分がここだと思った場所が

彼らにとってもベストな場所

 

「自分の最高は自分で決める」

 

そんな生き様をかんじます

 

 

 

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時には

私から見てもベストとかんじる事もありますが

 

どうしても人の目を気にしがちな我々からしたら

猫の自由さは理解し難くもあり

羨ましくもあります

 

 

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なんだか気持ち良いはまり具合は

自由であるが故に感動も一入です

 

 

生活をしているとどうしても

自分の中の価値観や

固定観念に縛られてしまいますが

その枠を超えてこそ

本当の喜びがあるようにもかんじます

 

それは「ワガママ」である事とは違います

猫でさえ最低限の猫同士のマナーはわきまえます

 

周りとの調和を考慮しながら

自分のやりたい事を

人の目を気にする事なく

自分の意志で実行する

 

簡単そうでなかなか出来る事ではありませんが

大切な事だとかんじます

 

つまり

「猫のように生きる」

 

猫を見習って

私たちも自由に

世の中にコロンと転がっても良いのではないでしょうか

 

 

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にゃー

 

 

 

 

小慣れた自分に小慣れない事の大切さ

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仕事

友人

家族

集まり

 

様々な人との繋がりの場面があります

 

初めての頃は緊張感もあって

程よい距離を保ちながら

相手を慮る振る舞いが出来ますが

繰り返すうちにその振る舞いにも慣れ

少しずつ緊張の糸も解けていきます

 

何事でもそうですが

緊張の糸が解けた時に

少し気に留めておきたいなと想う事

 

それは

 

 

小慣れた自分に小慣れない事

 

 

ではないかとかんじます

 

仕事を例にとるとわかりやすいのですが

繰り返し語る言葉があったとします

始めのうちは相手に届くように

「伝わる言葉の運び方」

を自然と行います

 

しかし

その言葉が身に付いて自然と口から発せられるようになった時

コレを言ったら次はコレ

そしてこうしてああして…と

スイッチを押せば話始める機械と変わらない

ルーティンとしてのノルマの言葉に変わってしまいやすくなります

 

 

こうなった時というのは実は

自分の意志での言動ではなく

言葉に意識が支配された状態であると言えます

 

コミュニケーションを通して

多くの方が経験されていると思いますが

決まった文言だけでは

全ての方には届かない場合があります

 

人によって受け取り方は様々ですので

相手に応じて言葉は変化します

 

簡単な表現に変えたり

ゆっくりお話ししたり

言葉数を減らしたり

耳元で語りかけたり

 

どのように変化させるかは

相手の様子を見て

自分の意志で言葉を見つけなければなりません

 

つまり

言葉を「想いを伝えるための大切なツール」として

大切に扱う事が必要になります

 

 

小慣れた時には

そのルールや技術に依存してしまいがち

ルーティンと化したその言葉を

ただただ繰り返してしまう事もままあります

そうなると

それでは伝わらない方に対しては

一方的に言葉を投げられているだけの状態になります

そうならないよう柔軟に対応出来てこそ

心のこもったおもてなしとなるのでしょう

 

 

これが

友人や家族を対象とした場合どうか

 

つまりは

「親しき仲にも礼儀あり」

という事ではないでしょうか

 

当たり前という想いになりやすいのが

身近な方々との関係です

 

どんなに仲良くなろうとも

どんなに本当の想いを伝え合える仲であろうとも

あの人ならわかってくれるだろう

と甘える事なく

ごめんなさい

ありがとう

をキチンと伝える事は大切にしたいですね

 

 

どんな場面に於いても

小慣れた時に自分の意志が失われがちです

ルールや技術

関係性に依存してはいないか

折を見て振り返るのも良いかもしれません

 

 

 

 

物語が溢れる空

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 今日の空は沢山の物語に溢れていました

全体を見たくて公園に行くと

金色に輝く犬のような狼のような雲が

黒い雲を咥えていました

 

 

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時間が経つにつれ

そのコントラストが色濃くなります

まるで

牙をむき出して闘っているかのよう

 

 

太陽は西の空に帰っていきます

太陽に面した雲は黄金色に輝き

太陽とは反対側の面は黒い影になります

 

見る角度を変えれば

黄金色の雲にも黒い影があり

黒い雲にも黄金色があるのでしょう

 

今私が眺めるそれを

全く別の角度から眺める人がいて

私がかんじるのと同じような事を想う方もあれば

全く違う物語をかんじている方もあるのですよね

 

 

広い空は何故こんなにも

私の心を大きく包み

自分自身を小さくかんじさせるのかと思う事があります

 

今日かんじたのは

空は宇宙と繋がっていて

宇宙そのものだからなのだろうなぁという事

 

もっともっと深く広く広がる宇宙の中に

私はいる

 

そんな宇宙の物語だったのかもしれませんね

 

 

 

 

 

 

 

 

愛を送る

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今を生きる事

未来を描く事

そんな事を心掛けていても

時折飛び込んでくる

過去を想わせるあれこれ

 

今であったとしても

怒りや悲しみを誘う相手

 

日々の生活の中には

どうしてもそんな色々も味合う事なる

 

そんな時必要なのは

 

もちろん

残っている怒りや悲しみは

存分に味わって見守ってあげる事も大切なのだけど

 

それが少し落ち着いたなら

1つ切り替えて

相手に愛を送る事なのかもしれない

 

 

降り注ぐ光のシャワーのように

自分の愛で相手を包むイメージ

 

怒りや悲しみを解決させるには

ただ「愛」しかないもの

 

 

そしてもう一つ

 

 

相手に愛を送るという事は

それと同じか

それ以上に

自分自身にも愛を送る必要があるという事

 

ネガティブな感情は

自分に愛が足りていないよという

1つのサインでもある  

 

私たちは愛の人

 

愛に基づいていない時

それらのサインがとても助けになるよね

 

自分にも相手にも

全てに真なる愛を送りましょう

 

 

海を味わう

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瀬戸内の海に足を浸し

 

 

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 日本海に身体を預け

 

 

 

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太平洋も独り占めして

 

 

たっぷりと海を味わった

 

 

今年の夏は地球に包まれ

地球をがっしりと掴んだ

 

一言に「海」と言えども

場所によって全く表情が違う

 

 それぞれのエネルギーと愛を

かんじることが出来たように想う

 

 

私たちは自然の一部であるから

意識して地球と繋がることは

とても大切だなと

改めて想えた夏

感謝

 

 

 

 

 

 

ご先祖様と自分の生を想う

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蓮は泥より出でて泥に染まらず。

 

 

今日、盂蘭盆会にお参りしてまいりました。

お恥ずかしながら毎年お参りとはならず、行ける時に行くという不義理ばかり。

これではご先祖様には申し訳が立ちませんね。

 

 

とは言えお寺さんへ行くと毎度楽しみなのが、ご住職のお説法です。

昔々に聴いたお説法で、ずっと胸に残っている言葉が、

 

「仏さんは、命を以って遺された我々に教えをくださってるんだという事です。」

 

亡くなった事を受けて何を想ったか、

久しぶりに集まった親戚とどんな風に過ごしたか、

自分自身に感じる事はなかったか、

幼いながらにそんな事が頭を駆け抜けました。

有難い事だなぁと、ヒッソリ涙を零さぬよう耐えていた日のことを思い出します。

 

そんなお楽しみの本日のお説法では、

「餓鬼」と「修羅」の話をされていました。


「餓鬼」とは、持っても持っても物足らず、まだまだ足りない、我がが我ががと欲に生きる事を言い、


「修羅」とは、自分だけが正しいと思い込み、自分の正しさを振りかざして全てを倒すひれ伏せさせる様を言うとの事。

 

「地獄」とは何かを伝える書物があるのは何故か、という話から広がったのですが、昔から伝えられている「地獄」の話は、人々を恐れさせる為にあるのではなく、それを聴いて己の生き方を振り返り改めろよという教えを込めてあるのだということ。
その中にある「餓鬼」「修羅」を抜粋してお話くださったのですが、深く感じ入る事となりました。

 

同じく仰るのが、ここ最近のお盆は「短期集中型ご先祖様お参り週間」であるという事。

我々の忙しさ故に仕方のない事とはいえ、都合良くその時だけハイハイとお参りするのはどうだろうか、と。

 

ご先祖様の誰1人欠けても、今の自分は存在する事が出来なかったんだと想うと、ここまで命を繋いでくださってありがとうと思えるでしょう。

 

忙しい現代ではありますが、

お盆にたった1日、

少しずつプラスしてご先祖様に感謝をお伝えする、お祈りをするなどの時間を少しずつ広げていけば、1年365日、感謝しながら生きる事が出来ます。

 

200年前、200年先、自分がまだ生まれていなかった時、既に死んでいるだろう時を祈るのではなく、生きている今、この瞬間を祈りましょう。

 

ここにご参集いただきお参りくださった皆様が、そのように想い改めるきっかけとなればと思います。

 

 

そんなようなお話でした。

 

現代には、

生きながらにして地獄を生きる人が沢山います。

「餓鬼」や「修羅」が沢山います。

 

先日読んだエゴをコントロールする本にもありました。

「エゴに支配されている者はもう既に、その報いを受けているのだ。」と。

 

 

さて、自分はどうだろうか。

 

 

そして、いつも良いタイミングでメッセージをくださる友人からは、

自分から21代遡れば、地球の人口を超える方々との関わりがあります。

このお盆を過ごし、

ご先祖様の全てにお詫びと感謝を送りましょうと。

 

皆が家族であるという事。
忘れてしまいそうになります。

 

完璧には出来なくても、

思い出せた時には祈りたいものです。

 

今この瞬間の自分の生を通してかんじる全てに、

愛と共にお詫びと感謝を。

 

 

日常と特別

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特別な日も大切だけれど

 

それが「特別」だと知るためには

 

日常こそ大切にしなければね

 

何にもない日


誰にも会わない日


くう ねる 遊ぶ

 

そんな日常にも喜びと感謝を