日常に溢れるメッセージ

日常に溢れる様々なメッセージを綴ります

天地を覆す〜陰陽を極める〜

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 この記事の中に、

拒食は過剰な自己否定

過食は過剰な自己肯定

 

という事を書きました。

受け取れるか受け取れないかという根本が違うと。

 

 

しかし角度を変えれば、

拒食は過剰な自己肯定でもあり、

過食は過剰な自己否定でもあります。

 

 

拒食・過剰な自己否定の場合、

自分には価値がない、愛を受け取る資格はない、

私はダメだ、私なんて、

などのネガティブな想いを全力で肯定しているからこそ、

自己否定という概念が成立します。

 

 

過食・過剰な自己肯定の場合、

自分は間違っているかもしれない、

自分の中に答えがあるかもしれない、

いいえそんな事ない、

もっと何か他にあるはずと、

自分が認めなければならない点を全力で否定しているからこそ、

自分肯定という概念が成立します。

 

 

 

否定する想いと同じだけの肯定が裏にあり、

肯定する想いと同じだけの否定が裏にあります。

 

 

陰極まれば陽となり、

陽極まれば陰となる。

 

と言いますが、

それぞれの想いが極まり別の意味を意図した瞬間に、

裏と表がひっくり返ります。

 

今までの常識は非常識となり、

天地が覆るのです。

 

 

人は誰でもどちらの可能性も秘めていて、

「今、どちらを観ているか」

で現れる物が変わります。

 

どちらが良いとも悪いとも無く、

どちらも認めた上で、

その真ん中を行く。

つまり、

中庸、中道を行くのです。

 

 

私たちの人生における「経験」と呼ばれるものは、

全てが中庸、中道を知る為の課題であり、

そこに関わる人々は、

善人も悪人も課題をクリアする為の協力者で、

これまた、

自分が「今、どこを見ているか」で、

協力者のタイプが変わります。

 

それほど、

自分自身に合わせて課題がクリアしやすいように、出来事も人間関係も用意されているのです。

 

 

なので、

華やかであれば良いのではなく、

地味だから悪いのではなく、

どちらもどちらなりの学びがあり、

経験に於いては次の段階への扉である事に違いはありません。

 

 

大切な事は目には見えません。

自分の外側に翻弄されない事です。

 

拒食、過食が教えるものも、

自分の内側の「愛の不足」です。

 

どの出来事にも自分の内側を照らす光があり、

そこにある答えが、

物事や想い、心の中庸、中道を指し示す道標となるのだと思います。