日常に溢れるメッセージ

日常に溢れる様々なメッセージを綴ります

食欲と愛の関係

f:id:nakatakaori:20180119141551j:image

 

 あくまで私の体験に基づく考察です。

 

 

ストレスなどが原因で食べられなくなる、

また逆に食べ過ぎてしまう。

食欲に真逆の影響を与えるのが面白いなぁと思うのですが、

 

私の場合、

 

以前は、

ストレスで「食べられなくなる」タイプでした。

食べる事が苦痛で、生きる為に食べなければという、

課題のように食事と向き合っていたので辛くて仕方ありませんでした。

 

 

現在は、

「食べ過ぎてしまう」タイプになりつつあります。

実際には食べないのですが(以前よりは食べます)、

あれが食べたいこれが食べたいと思う事が増えました。

因みに今、クラブハリエのバームクーヘンが食べたいです。

 

 

 

心理学では、

拒食と過食に対してこのような考え方があります。

 

拒食は、

受け入れられない想いが強い時。

胃は感情を処理する臓器でもあるので、

感情がフルになると他を処理出来なくなる為です。

 

過食は、

愛が足りていないと感じる時。

もっとちょうだい、もっとちょうだいと、

安心感を得たいと言う気持ちから、

自分の中に溜め込もうという想いの表れです。

 

 

実はどちらも「愛が足りていない」状態なのですが、

根本的な部分が決定的に違います。

 

それは、

 

拒食は愛を受け取る事が出来ない

つまり、過剰な自己否定タイプ。

私が悪いんだ…と考えるタイプです。

 

過食は愛を受け取る事が出来る

つまり、過剰な自己肯定タイプ。

私は悪くない!と考えるタイプです。

 

 

「過剰な」と書いたのは、

 

拒食・自己否定の場合、

反省を通り越して自分そのものを否定してしまう事、

存在意義さえ価値の無いもの認定し、

人の純粋な愛でさえ疑って、

私にはそれを受け取る価値なんてないだとか、

そんな事したらあなたに申し訳ないだとか、

側から見ても心配になる程に、

極悪な犯罪を犯して監獄するかの如く、

自分で自分の自由や「らしさ」を奪うのです。

その様は、とても暗い感じがします。

 

過食・自己肯定の場合、

自身は反省をせず相手に非があると考え、

自分はこんなにも正しいのにと考える傾向があります。

良い点しか受け取ろうとせず、

くれくれ、よこせよこせ状態。

自分らしさとワガママを勘違いし、

人から良いものだけを奪うのです。

その様は、とても快活で明るい感じがします。

 

ここまで来ると「過剰さ」はわかると思います。

 

 

 

 

もう一度書いておきますが、

これは「私の体験に基づく考察」です。

 

 

 

拒食、過食。

何事もそうですが、過ぎるのは良くないですね。

先に記した「過剰」は良くない。

 

私は、拒食からやや過食に転じました。

食べる量はコントロールが出来ますので「やや過食」としています。

 

てもこれ、悪い事ばかりではないのです。

別の言葉に書き換えると、

 

愛を受け取れなかったのが、

愛を受け取れるようになった。

 

という事です。

素晴らしい変化です。

 

 

「過剰」な例を書いた為に、

悪い事を語り出しそうに感じられたかもしれませんが、

拒食や過食が知らせる自身の変化はコレだと感じ、

実際、私の中では先に書いたような心模様があり、

その移り変わりも体験しています。

 

究極に自己否定タイプでしたし、

愛を受け取るレッスンの日々でしたし、

昔より自分を肯定出来るようになり、

受け取る事も出来るようになって来ました。

 

 

最近、アレが食べたいコレが食べたいと思う事が増え、

食べても食べても満たされないと感じるのは、

一体何故なのだろう?と考えた時に、

 

愛が欲しくてもっともっとと外に求めているんだな、と気付きました。

ちょうだい、ちょうだい、もっとちょうだい。

私が私に贈る愛が足りてなかったんだと。

 

その時ふと思ったのです。

ちょうだい、ちょうだいというのは、

受け取りたいという「欲」です。

 

私、受け取りたいって思ってる!と。

受け取る価値などないと思っていた人間が、

受け取りたいと思っているんです。

 

あぁ、私変われたんだと嬉しくなりました。

 

そのプロセスは神懸かり。

食事が苦痛ではなく喜びに変わった瞬間から、

世界が変わったのですから。

 

 

 

良い事悪い事は背中合わせです。

その間、中庸、中道を行く事を人生の中で学んでいるのだと思います。

 

自分自身の中庸を知る為には、

この拒食や過食という「極」を知る事です。

 

両方を知って、その間のバランスを取る事。

中庸、中道を知って、

ここに集中すれば良いと言う事です。

 

 

私の場合、

拒食からやや過食になりました。

食べる量が増えたお陰で、

身体の変化がわかりやすくなりました。

 

食べたい食べたくないそれぞれの時の心の状態、

お腹が重くなっている時、

お菓子やコーヒーが欲しくなる時、

お水だけで良い時、

胸の辺りが重い時、

などなど。

 

食べられなかった事で鈍感になっていた事が、

食べられる事によって敏感になって来たのです。

 

なので、

今日はこんな感じだからこうしようとか、

心を満たしてあげようとか、

何かしらの手当てが出来る、

或いは手当てをしようと考えられるように変わりました。

 

中庸を知り始めたのですね。

 

 

いずれ、

中庸が極まれば拒食過食を超えていくのでしょう。

少食や不食でも人は生きられます。

心にどれだけエネルギー(愛)を満たしていられるか、

これが重要なのですから。

 

 

まだまだそんなレベルには程遠いですが、

食欲というのはそんな「愛」について教える、

強力なバロメーターだと思います。

 

拒食も過食も、

自分の自分に対する愛が不足して起こる事。

 

自分を満たし、人に与え、人から受け取る。

そのバランスを知る為に身体が「身体を張って」くれている訳です。

 

食べられない時、

食べ過ぎる時、

しっかりと自分の内側を見つめるチャンス。

見逃さないようにしたいですね。

 

 

 

これらはあくまでも、

私の体験に基づく考察です。

 

しかし、近からず遠からずではないかと思います。