記憶について、こんな事を書きました。
はてさて、
忘れるとは一体どう言う事なんだろう。
色々な側面があるとは思うのですが、
「学び」という観点から、
自分の体験に基づく、忘れた事、
忘れる事が出来た事について考察してみます。
日々、私たちは「自分」を生きる為に自己研鑽している訳ですが、様々な経験や出来事の中に今学びたい事というのが隠れていて、それらの出来事を通して人生における視野を広げています。
私の過去の経験に於いて、
今記憶にないものを振り返ってみますと、
記憶はなくとも覚えている断片というのがあって、
それが、その経験に区切りをつける鍵なのだろうとかんじます。
経験が「1つの部屋」だとしたら、
その部屋での学びを全て終えると次の部屋へ行けるのです。(少し大雑把に書いてます。)
その部屋を出る時に、扉を閉め、鍵をかけるんですね。ありがとうございましたと。
引越しで部屋を引き払う時みたいな感じでしょうか。
私の場合、その「鍵」となり得る記憶の断片は、
殆どの場合が「納得した」という「想い」です。
そうか、それはもう私には要らないという事なんだ。なるほど。
とか、
この関係は、この学びの為にあったものなんだ。なるほど。
とか、
私はこの部分に執着を持っていたと言う事か。なるほど。
とか。
そんな感じです。
なるほど、と思うのです。
それが私に「鍵」をもたらし、上手く消化出来た後に扉に鍵がかかります。
するともう、記憶としての存在が無くなるのです。
存在しないと言う事はつまり、「自分の中に在る」という事。
そこにある学びと分離していた気付きが、「自分と融合した」という事を意味します。
ワンネスへと歩を進めたという事です。
なので、忘れられない事が多いと言うのは、
通ってきた部屋の扉が全て開きっぱなしの状態である事を意味し、
分離の状態が続き、その後も同じような経験が再びやって来る事を意味します。
嬉しい事も、腹の立つ事も、
感謝や憎しみや妬み嫉みも、
全てが自分のエネルギーを消費させる出来事として、再び訪れるという事です。
嬉しい事ならいいじゃない、と思うかもしれませんが、
陰陽のバランスと言うものがあって、
そこに偏り過ぎるのは毒に繋がるのです。
喜びの刺激を求め続け、自分の本心を見失うパターンもあります。
実際、多く見受けられますし、私もそのパターンにハマりつつありました。
ホームランを打ち続ける為の秘訣として、昔こんなような事を言っていました。
「ホームランは、打った瞬間に忘れるようにする。
その成功体験に縛られると、次の打席で打てなくなる。
その時々のコンディションは違うから、打ったらすぐに忘れる事が大事だ。」
喜びは、ともすれば執着に成り代わります。
執着するという事は、過去に生きる事を意味します
今を生きるには、その執着を捨てて、
ニュートラルな自分でそのエネルギーを循環させる事が必要なのでしょう。
これは、喜びの感情を抱くなという意味ではありません。
陰陽抱き参らせる事が大切で、
良しも悪しも認めた上で中庸を守ることが大切なのです。中道を行く事なのです。
嬉しい事は嬉々として向き合うけれど、
ネガティブな感情は目を逸らしやすいですから、
どちらもしっかりと向き合って、
自分の本心に気付く事から逃げない事です。
今をしっかり生き抜く事です。
そんな風にして、
自分の感情や心の在り方をコントロールして、
自分としっかり融合させる事で、
開きっぱなしの部屋の扉に鍵をかけられるようになります。
そうして、記憶は意識から消え去り、
魂に記録として刻まれ磨かれるのだと思います。
さて、今振り返ってどうでしょう。
開きっぱなしの部屋はありませんか?
扉を閉めないのは他人ではありません。
自分にしか閉められないですし、
鍵も自分にしか手渡して貰えないものです。
今年の節分は大事な節目だと言います。
それまでに少しでも、開きっぱなしの扉を閉められるように、自分と向き合いたいですね。
この世は、この人生は素晴らしい
という記憶で自分を満たせるように。