蓮は泥より出でて泥に染まらず。
今日、盂蘭盆会にお参りしてまいりました。
お恥ずかしながら毎年お参りとはならず、行ける時に行くという不義理ばかり。
これではご先祖様には申し訳が立ちませんね。
とは言えお寺さんへ行くと毎度楽しみなのが、ご住職のお説法です。
昔々に聴いたお説法で、ずっと胸に残っている言葉が、
「仏さんは、命を以って遺された我々に教えをくださってるんだという事です。」
亡くなった事を受けて何を想ったか、
久しぶりに集まった親戚とどんな風に過ごしたか、
自分自身に感じる事はなかったか、
幼いながらにそんな事が頭を駆け抜けました。
有難い事だなぁと、ヒッソリ涙を零さぬよう耐えていた日のことを思い出します。
そんなお楽しみの本日のお説法では、
「餓鬼」と「修羅」の話をされていました。
「餓鬼」とは、持っても持っても物足らず、まだまだ足りない、我がが我ががと欲に生きる事を言い、
「修羅」とは、自分だけが正しいと思い込み、自分の正しさを振りかざして全てを倒すひれ伏せさせる様を言うとの事。
「地獄」とは何かを伝える書物があるのは何故か、という話から広がったのですが、昔から伝えられている「地獄」の話は、人々を恐れさせる為にあるのではなく、それを聴いて己の生き方を振り返り改めろよという教えを込めてあるのだということ。
その中にある「餓鬼」「修羅」を抜粋してお話くださったのですが、深く感じ入る事となりました。
同じく仰るのが、ここ最近のお盆は「短期集中型ご先祖様お参り週間」であるという事。
我々の忙しさ故に仕方のない事とはいえ、都合良くその時だけハイハイとお参りするのはどうだろうか、と。
ご先祖様の誰1人欠けても、今の自分は存在する事が出来なかったんだと想うと、ここまで命を繋いでくださってありがとうと思えるでしょう。
忙しい現代ではありますが、
お盆にたった1日、
少しずつプラスしてご先祖様に感謝をお伝えする、お祈りをするなどの時間を少しずつ広げていけば、1年365日、感謝しながら生きる事が出来ます。
200年前、200年先、自分がまだ生まれていなかった時、既に死んでいるだろう時を祈るのではなく、生きている今、この瞬間を祈りましょう。
ここにご参集いただきお参りくださった皆様が、そのように想い改めるきっかけとなればと思います。
そんなようなお話でした。
現代には、
生きながらにして地獄を生きる人が沢山います。
「餓鬼」や「修羅」が沢山います。
先日読んだエゴをコントロールする本にもありました。
「エゴに支配されている者はもう既に、その報いを受けているのだ。」と。
さて、自分はどうだろうか。
そして、いつも良いタイミングでメッセージをくださる友人からは、
自分から21代遡れば、地球の人口を超える方々との関わりがあります。
このお盆を過ごし、
ご先祖様の全てにお詫びと感謝を送りましょうと。
皆が家族であるという事。
忘れてしまいそうになります。
完璧には出来なくても、
思い出せた時には祈りたいものです。
今この瞬間の自分の生を通してかんじる全てに、
愛と共にお詫びと感謝を。